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短編

水の流れとひとの行方





 気がつけば、随分町外れまで来ていた。

 珍しい錬金術の書物を貯蔵している図書館や一般にあまり受け入れられなかった言われる本が置いてる図書館があると聞いて、ここまで来た。

 その図書館自体が、貯蔵している本の貴重度をあまり把握していないらしく、一般でも見られる本もあるという。

 ただし、図書館が本事態の評価を見誤っているとは限らない。錬金術の本なんてそんなものだ。それを見極めるのが自分のすべきこと。

 寧ろ容易く解ってしまうものの方が余程危うい。色々な意味で。

 例え、ある程度の許可がなければ見られない本でも、銀時計を有していれば大抵の物ならば閲覧可能だろう。

 そう思って動きやすい場所に宿を取り、アルフォンスと別れたのが数時間前。

 結果としては、初めて手に取る内容の本はそれなりにあった。

 通常であればこんな論文は酷評された挙句、蔑ろな扱いを受けそうだというような物も。

 そいういう本こそ、求めている本であるならば、読み解くことが出来さえすればそこに込められた意図を知識として手に入れられる。

 そうした時間を、いままでどれ程費やしてきただろう。

 こうして今日も、そうした時間を費やしていく。

 求めているものが手に入るまで。

 求めているものを取り戻すまで。

 止められない砂時計。抗うことの出来ない時間の流れの中で進めるだけ進むしかない。

 そう。今、自分を照らす夕日も何もかも。

 さすがに遅くなりすぎるとまずいと思い、何とか区切りをつけて、一人宿へ戻ろうとするエドワードはため息を零す。


「……ッ」


 喉が詰まった。

 前へ進もうとするその脚を止めざるを得なくなる。

 その不意打ちに、普通に立っていられずに思わず右腕を近くの木の幹に伸ばして身体を支える。


「はぁ……」


 数時間前からこんな調子が続いていた。丁度アルフォンスと別れて個人行動をし始めた頃か。はっきりとは覚えていなかった。

 理由はわからない。

 思い当たる節がない。

 何か悪そうなものを食べた記憶なんて。

 しかも食べ物にあたったときでもこんな痛み方をしたことがない。

 解ることは、盲腸の類ではなさそうだということだけ。場所が違う。


「何で……」


 このままではまずい。

 幾らこのまま宿まで戻れたとしても、その後をどうする。

 このままではどうしたってアルフォンスの知るところになってしまう。


(やべえ……)


 思わず口元を手で覆う。

 こうなったら宿に戻る前に薬を手に入れるしかない。

 本来はあまり個人的には歓迎しないが、優先度重要度を考えれば仕方がない。

 自分として大切なのは薬を得ることしかなさそうだ。そして早く効き目が現れてくれなければ。

 今、自分を襲うこの腹痛には波があり、引いている時は本当に何の問題もないのに。忘れていられるほどに。


「うっ……ぐッ」


 瞬間だった。

 立っていられなかった。

 思わず身を折り、その場にうずくまる。

 数分耐えれば、また少しは落ち着いてくるはずだ。

 腕は無意識のうちに腹を抱えた。

 汗は頬を伝って落ちた。


「うっ」


 思わず苦悶が口から零れる。

 痛みを軽減させる方法があれば何でもやるのに。そんな術は当然解るはずもなく、ただただ身を折って耐える。それしか。

 こんなところでうずくまっている場合じゃない。なのに。

 その痛みに耐えようと、無意識に更に身体を折る。

 何も聞こえない時間。

 それを唐突に破ったのは、聞きなれた音だった。

 突然その音が鳴り響いたわけではない。

 ずっとその音を響かせていたはずなのに。

 なのに、唐突にその音がエドワードの聴覚を奪った。否、正確には奪い返した。


「兄さん!」


 ビクッと身体を震わせて、エドワードは顔を上げた。

 なるべく表情に出さないようにと思ったけれど、無理なものは無理だった。

 しかも相手は弟だ。今のような状態じゃなくても、隠すのは難しかっただろう。

 いつもより少しだけ弱った瞳が弟の姿を捉える。


「兄さん……?どうしたの?」


 兄の異常に気付いて、ガシャンと聞きなれた音を響かせてアルフォンスが走ってエドワードの元に走り寄る。

 ああ、とエドワードは思う。

 もう、届く。

 聞きなれた音は確かに聞こえた。


「アル……」


 エドワードは小さく深呼吸する。気を抜くとまた激痛に襲われそうな気がした。


「兄さん!」

「悪ィ……」


 少しだけ落ち着いてきたエドワードは今度は浅く呼吸をしながら謝る。


「そんなのいいよ。それよりどうしたの?」

「何か……オレもよく分からねぇんだけど、腹が」


 ここは仕方なく事実を白状する。


「お腹?」


 それを聞いてアルフォンスも昨日辺りからの記憶を手繰り寄せ始める。


「別にへんなもん食った記憶もねえし、特に思い当たることねえし」

「そうだね……ボクが覚えてる限りだとそういうことはなさそうだね。お腹出して寝てたわけでもないし」


 疑わしきことは思い浮かばない。

 するとまたエドワードが苦痛の表情を浮かべて小さくなる。その顔には更に汗が浮かぶ。


「兄さん!」


 目の前で苦しむ兄をどうにか助けてやりたい。ただ見ているだけなんて。こんなにそばに居るのに。自分が苦しい時はいつも兄が近くに居たのに。

 堪らずアルフォンスはエドワードを担ぎ上げた。

 エドワードの身体が重力に逆らって浮かび上がる。


「ちょッ……アルッ……」

「病院!病院行こう!」

「……いらね」


 力なくエドワードが拒否の言葉を口にする。


「よくないよ!病人に発言権なんてないんだから。そんなに苦しんでるじゃない」

「いんだよ別に……」


 心配してくれているのは解る。

 心配でたまらないという声色。それは逆の立場を想像すれば解り過ぎるほど。

 そうは思うけれど。

 言い返すその声はいつもよりも小さい。いつもよりも覇気がない。

 エドワードは繰り返し拒否の言葉を紡いだが、アルフォンスは兄を迎えに来た道を既に戻り始める。

 目的地に文句は言わせないとばかりに。

 どうせ今日の帰路はこの道なのだから、と。

 アルフォンスに肩車されて帰る帰路。

 いつもよりも高い視界。


「もう……心配して来てみて良かったよ」

「え」


 エドワードはアルフォンスの顔を覗き込むように体勢をずらす。


「気付いてた?」

「え?」

「……や、何でもね。……あ、さっき時計見た時よかすげぇ時間経ってた……」


 エドワードは時計で時間を確認してその事実に気付いた。さっき見た時間よりも針は随分と進んでいる。

 さっき、と言ってもそれはまだ図書館に居たころで、その後もそれなりに居座り続けていたのだが。


「そうだよ。だから此処まで来たんじゃない」


 エドワードのことだから、どうせまた時間を忘れて本を読んでいるのだろうと。

 一応様子を見に行こうと歩いてきたその道すがらだ。

 ホテルで待っていてもよかった。

 けれど、どうせ閉館の時間になれば追い出される。ならば迎えにいってもいいだろうと。

 もしも時間に気付いて自分から戻ってきているのなら、道の途中で会えるだろうと。

 それから暫く会話はなく。

 ガシャンと響く一人分の足音。

 道には夕日で映し出された二人分のシルエット。

 つかの間の静かでのどかな帰り道。

 エドワードも楽になってきたのか、大人しくしている。

 静かで。


「……アル」

「何?」

「ごめんな」


 エドワードは繰り返す。

 ねえ、貴方は今。

 どんな表情でその言葉をボクに言ったの?


「いいよ、お互い様でしょ」

「うん、だから」


 コツン、と小さな音。

 エドワードがアルフォンスの頭に腕を回して体重を少し預ける。

 アルフォンスの視界に蜂蜜色の髪が映る。

 大きな姿の弟を後ろから抱きしめて。

 自分の頭を弟の左肩に預ける。

 そしてやっと少し見えた兄の横顔。


「ゴメンな」


 謝らなくていい。

 謝らないで。

 貴方はボクの全てなんだから。

 今、ボクは激しく自分に怒りを感じる。

 いつから?

 いつからなの、兄さん。

 貴方は今、貴方を蝕む痛みといつから戦っていたの。

 今さっきの出来事ではないよね。

 隠そうとした貴方に怒りは別に感じないけれど。

 一緒に居たのに察知できなかった自分が、ただ情けないと思うだけ。

 いつもなら真っ先に気付くのに。気付けるはずなのに。

 だって貴方が自ら申告することが苦手なことをボクは知っているから。

 言ってもらえないことを、寧ろいつも悔しく思うのに。

 いつ、どんな状況下でも貴方はボクを気遣って。

 それは替えることの出来ない優越だけれど、その分自分は何をしてあげられているのだろう。

 もし万が一、貴方を失うなんてことがあったらボクはどうなるのだろう。

 ボクは貴方ではないのだから、言わなければ気付けないことだってある。

 それどそれとは話が別。

 苦しむ貴方に気がつかないなんて。

 だって。

 貴方が視界に映る。声が聞こえる。貴方の声がボクの名を紡ぐ。

 それこそがボクの。

 それこそが。


 貴方の呼吸の気配すらボクを安心させて、そして縛り付ける。

 ボクを支えるものは思う以上に脆く危うい。

 けれど同時にそれが今のボクを形成するものでもある。

 一人分の足音。

 二人分のシルエット。

 一人分の食事。

 二人分の宿。

 それが今の自分達。


 日が沈む。

 さあ帰ろうよ。

 貴方の望む場所こそが、自分達の道。自分達の、帰路。
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